ここ最近、インターネットやSNSなどの一部で、金継ぎに使うテレピン油を問題視する論調をしばしば目にするようになりました。漆の粘度を調整するためにテレピン油を使うと教えられ、これまで当たり前のように使ってきた私たちにとってはまったく寝耳に水です。
前々から金継ぎを習っていたり、書籍やYouTubeなどを見て金継ぎを始めた方の大半も、やはり同じようにテレピン油を使われているのではないでしょうか? そこにこのような論調が現れると、どうしても「テレピンは本当に安全なのかな…」と疑心暗鬼になる方も出てくるのではないかと思います。また、これから金継ぎを習おうと思っていたり、大切なうつわの修理を依頼しようとしている方が、「テレピンを使うところに頼んで大丈夫?」と不安を抱いてしまうような事態にもなりかねません。
このような混乱を避けるために、あるいは不毛な分断を生まないために、今回は金継ぎで使われているテレピン油について、可能な限り厚生労働省や海外の公的機関が公開する資料、法令、技術文書などの一次情報にもとづいて徹底解説していきます。
一寸先も見えない暗闇、いつやってくるか分からない地震、未知のウイルスなど、「目に見えないもの」「予期できないもの」「知らないもの」を、私たち人間は本能的に過大評価して恐れます。生き延びるための生存本能なので、これは仕方がありません。
でも、ライトを照らせば、もしかすると暗闇の向こうでガサゴソ音を立てているのは、クマではなくて野ウサギの家族かもしれません。もし1週間後に大地震が来ると予測できれば、事前に避難することができます。得体の知れなかったウイルスが実際には風邪ウイルス程度のもので、感染経路や治療法まで分かったとなれば、もう何も怖くはありません。
つまり、テレピン油とは何か?
それを深く正確に知ることが、余計な混乱や分断から身を守る唯一の手段なのです。
専門用語をなるべく使わず、分かりやすく書くつもりではありますが、使う人の健康や法令などに関わる事柄も含まれるため、どうしても正確性を優先せざるを得ない部分が出てきます。難しく感じる部分があっても、そこはご容赦いただければと思います。
目次
- なぜ金継ぎにテレピン油を使うことが問題視されているのか?
- VOC(揮発性有機化合物)っていったい何?
- テレピン油とフィトンチッド(森林浴成分)の意外な関係
- 天然由来であるにも関わらず安全性が疑問視される理由
- 吸い込む量によって異なる安全性の評価
- 実際のところ金継ぎではどの程度の曝露量になるの?
- 錯綜する情報に振り回されないために
- 国内の主要漆精製メーカーはどう考えているんだろう?
- 便利さと引き換えに増したテレピン油の重要性
- 漆を希釈するためにVOCを使うことは伝統なのか?
- 江戸時代の古文書から見えてきた新事実
- 漆芸に使われるVOCの歴史は江戸中期にまで遡る
- 金継ぎの技法が確立したとされる室町末期〜安土桃山時代は?
- 伝統とは世代を超えた創意工夫の積み重ねである
なぜ金継ぎにテレピン油を使うことが問題視されているのか?
金継ぎにテレピン油を使うことを問題視する論調としては、主に以下のような内容が挙げられます。
- VOC(揮発性有機化合物)、つまり化学物質であるため健康への悪影響が懸念される
- 近代以降に普及した溶剤を使うのは、伝統的な金継ぎではない
- 食品衛生法の「ポジティブリスト制度」が施行され、食器への使用が禁止されている
これらの言説をひとつひとつ丁寧に紐解いていくことで、「テレピン油について知っておくべき真実」を解明することが、この記事の目的です。
ただし、3つめの「食品衛生法の『ポジティブリスト制度』が施行され、食器への使用が禁止されている」という主張について。もし、仮にこれが本当であれば、もはや議論の余地はありません。金継ぎにテレピン油を使えば違法だということになりますので、前もって明確にしておく必要があります。
2025年6月に本格運用された食品衛生法の『ポジティブリスト制度』とは、食品に接触する合成樹脂(プラスチック)製の器具・容器包装(ラップ、弁当箱、ペットボトル、食品用ホースなど)について、安全性が確認された物質のみの使用を認め、それ以外を原則禁止するという規制です。
そもそも合成樹脂ではない漆は対象外ですし、金継ぎにおいてテレピン油は主に溶剤として使われるもの。厚生労働省の検討資料では「最終製品に残存することを意図して用いられる物質」を管理対象とする考え方が、明確に示されています。テレピン油を用いた天然の漆による金継ぎを禁止する規定などは、少なくとも私には一切確認することができませんでした。1
VOC(揮発性有機化合物)っていったい何?
テレピン油を使うことに異を唱える言説は、「テレピンはVOCであり、化学物質だから体に悪い影響を及ぼす可能性がある」という点において、ほぼ一致しているように見受けられます。では、VOC(Volatile Organic Compounds)とはいったい何なのでしょうか?
VOCとは、揮発性有機化合物のことです。「えー、何それー。なんか危なそう!」と思われるかもしれません。でも、これはただ単に「蒸発しやすく、大気中で気体になる有機化合物(化学物質)」の総称。揮発する液体は基本的にVOCです。それでは、私たちの身近にはどんなVOCがあるのでしょうか?ちょっと探してみましょう。
- エタノール(消毒液、アルコール飲料)
- オレンジオイル(食器・台所用洗剤、アロマオイル、香水・化粧品、食品・飲料)
- ラベンダー精油(アロマオイル、香水・化粧品、石鹸・シャンプー・ボディソープ)
- ペパーミント精油(歯磨き粉・マウスウォッシュ、ガム・のど飴)
これらはすべて揮発性有機化合物、つまりVOCです。「エタノールはよく分からないけど、他は天然のものばっかりじゃん!化学物質じゃなかったの?」とつっこまれそうな一覧かもしれません。でも、化学物質というのは質量と体積を持つあらゆるもの。水も酸素も、塩も砂糖も、すべて化学物質。もちろん、プラスチックもガソリンも化学物質です。
逆に、VOCではなくても危険をともなう薬品類は身近にたくさんあります。例えば、取り扱いに充分な注意が必要とされる漂白剤(次亜塩素酸ナトリウム/過酸化水素)や、排水管に詰まった髪の毛をも溶かすパイプクリーナー(水酸化ナトリウム)。どちらも強烈な臭いがしますし、強い腐食性と毒性を持ちます。ただし、揮発性ではないため、VOCではありません。
テレピン油とフィトンチッド(森林浴成分)の意外な関係
オレンジオイルやラベンダー精油、ペパーミント精油などを並べ立てると、何か意図的に安全そうなVOCばかりを選んだように思われるかもしれません。ただ、実際のところ、テレピン油もこれらと同じ天然由来。マツなど針葉樹の樹脂、いわゆる松ヤニを蒸留してつくられる天然の揮発性油です。そして、その主成分がα-ピネンとβ-ピネン。森林にはそのどちらも存在しており、特にα-ピネンは森林浴の香りを代表する成分のひとつだとされています。
以前、アロマテラピーを勉強している金継ぎ教室の生徒さんから、「ここに来ると森のような良い香りがするんですけど、これが漆の香りですか?」と尋ねられたことがあります。でも、漆の香りはよほど鼻を近づけないと感じることができません。おそらく、彼女は揮発したテレピン油の香りのことを言っていたのだと思います。事実、テレピン油も香水や化粧品などの香料として使われることがあります。
つまり、一方ではα-ピネンとβ-ピネンを含むフィトンチッド(森林浴成分)が健康志向の人々の間でもてはやされ、もう一方では同じ成分を有するテレピン油が、同じく健康志向であろう人々から忌避される。なぜそんな矛盾したことが起こるのでしょうか?
天然由来であるにも関わらず安全性が疑問視される理由
ここまでご説明すれば、VOCそのものが「安全性に問題がある」という定義では決してないことはご理解いただけたかと思います。それでは、なぜ一部で金継ぎにおけるテレピン油の使用が問題視されているのでしょう? もちろん、そこにも理由があります。
厚生労働省や海外の評価機関はテレピン油についての有害性評価をおこなっており、欧州化学品庁(ECHA)や各種SDS(安全データシート)では、皮膚刺激、皮膚感作(アレルギー)、誤飲時の化学性肺炎のほか、高濃度曝露時の呼吸器刺激、頭痛、めまいなどの健康影響が指摘されています。
テレピン油の使用に懸念を示す意見のほとんどは、主にこうした有害性情報を根拠としてます。しかし、その前提条件である「高濃度曝露時」まで丁寧に説明している記事を、私は見たことがありません。
米国国立労働安全衛生研究所(NIOSH)などの労働衛生機関は、さまざまな物質が労働者に与える健康影響を踏まえ、職業環境における曝露基準値を設定しています。この曝露基準はテレピン油やエタノールなどのVOCのみならず、アンモニアや塩素などの無機ガス、小麦粉などの粉じん、金属、鉱物繊維、そして動物由来アレルゲンまで、労働者が職場で吸い込む可能性があるもの全般に対して設定されています。
この職業曝露基準を考慮に入れず、もし「高濃度曝露時」に報告されている有害性情報のみを前提とするのであれば、小麦粉の粉じんを吸い込むことも問題になります。実際、ベーカー喘息(Baker’s Asthma)と呼ばれる職業性喘息は、欧米の製粉工場やパン工場ではかなり古くから知られている職業病。だからと言って、「一般家庭でパンやお好み焼きをつくることは安全性に問題がある」という理論が成り立つはずはありません。
吸い込む量によって異なる安全性の評価
ちょっと難しい話になってきましたが、簡単に言えばテレピン油の主成分であるα-ピネンとβ-ピネンは自然界にも存在します。だからと言って、無害だということではありません。微量の成分が漂う森林と、塗装工場のように大量のテレピン油を扱う産業現場を比較すれば、当然まったく違う話になる。それは、容易にイメージできるのではないでしょうか。
要するに、問題なのは「テレピン油そのもの」ではなく、それが揮発した空気にどの程度さらされるか。つまり曝露量です。高濃度曝露とはどれくらいなのか。曝露基準値はどの程度に定められているのか。そこを理解すれば、テレピン油に対する見方はガラリと変わるはずです。
NIOSHの資料では、750〜1000ppmに数時間さらされた人に、目の刺激、頭痛、めまい、吐き気などの症状が報告されています。そのため、NIOSHは「生命または健康に直ちに危険を及ぼす濃度(IDLH)」を800ppmと定めました。そして、労働者が1日10時間、週40時間勤務する職場環境を想定した職業衛生上の管理指標として、推奨曝露限界(REL)100ppmを設定しています。
つまり労働者が安全に仕事を続けられるよう、職場に揮発しているテレピン油の濃度を100ppm以内に管理することを推奨する。万が一事故などが発生し、その濃度が800ppmに達する可能性がある場合は可及的速やかに避難する。それが、指標とされている数値です。
実際のところ金継ぎではどの程度の曝露量になるの?
ここまで専門的な数値を並べ立てると、おそらく大半の方が「100ppmのppmっていう単位はいったい何なの?」と感じられることでしょう。ppm(parts per million)というのは、100万分の1を表す単位。そのため、100ppmは空気100万に対して100の割合でその物質が含まれている状態を意味します。
うーん、それだけではイマイチよく分かりませんよね? では、金継ぎをする際、その部屋の空気にはいったいどれくらいのテレピン油が含まれているのでしょうか。私たち一般人にはその想定値を出す計算なんて到底できませんが、現在はAIという非常に強力なツールがあります。これを使わない手はありません。そこで、NIOSHが公開している曝露基準値をもとに概算を手伝ってもらいました。
普段、私が仕事をしている仕事場の面積はおよそ36平米、天井高は2.4m。普段の作業を想定し、テーブル上に筆洗い用のテレピン油を小さじ1杯ほど(約5mL)置き、漆には必要に応じて1〜3滴ずつ加えるものとします。さて、どうなるでしょうか?
ChatGPT:
正確なppmは換気条件や蒸発速度によって変わるため計算できません。しかし、100ppmがどれくらいの量なのかを概算することはできます。
22畳の工房(36平米、天井高2.4m)の場合、100ppmに達するには理論上約550〜600mLのテレピン油が蒸気として空気中に存在する必要があります。
これは500mLのペットボトルを超える量です。
テーブルの上に500mLのテレピン油を置けば100ppmになるという意味ではありません。100ppmとは、その量に相当するテレピン油が実際に蒸発し、工房内の空気中に広がっている状態を意味します。
一方、工房で使用するテレピン油は、筆洗い用に約5mL、漆に加える量も1〜3滴程度です。
もちろん単純比較はできませんが、職業曝露基準として設定されている100ppmと、一般的な金継ぎ作業で扱う量との間には大きな隔たりがあると考えられます。
なるほど。じゃあ、その「大きな隔たり」がどれくらいなのかも聞いてみましょう。
ChatGPT:
厳密な比較はできませんが、かなり大きな隔たりがあります。
例えば今回のケースでは、筆洗い用として約5mLのテレピン油を置いています。
一方、100ppmという濃度は、理論上約550〜600mL相当のテレピン油が蒸気として空気中に存在する状態です。
単純な量だけで比較すると、およそ100倍以上の差があります。
しかも実際には、小皿に入った5mLのテレピン油が一瞬で蒸発するわけではありません。徐々に揮発し、その間にも換気によって屋外へ排出されます。
つまり、100ppmという職業曝露基準が想定している環境と、一般的な金継ぎの作業で扱われるテレピン油の量や使用状況には、非常に大きな隔たりがあります。
もちろん、だから換気が不要という意味ではありません。テレピン油には有害性情報があり、適切な換気や取り扱いは重要です。
期待していた「仕事場の空気に含まれるテレピン油はいったい何ppmになるのか」という答えを得ることはできませんでしたが、推奨曝露限界(REL)100ppmには到底届かないくらいかけ離れているということは分かりました。
錯綜する情報に振り回されないために
繰り返しにはなりますが、テレピン油の推奨曝露限界(REL)100ppmというのは、あくまでも「労働者の健康を守るために職場の曝露量は100ppm以下になるよう管理してください」という推奨値です。100ppmを超えた瞬間に危険になるという数値ではありません。
この推奨値の100分の1にも満たないのに、金継ぎにテレピン油を使用することがそれほど大きな問題になるとは、個人的にはとても思えません。小麦粉だって毎日何時間も大量に曝露すれば、健康被害のリスクがあるのですから。
また、厚生労働省はシックハウス対策として、特定のVOCについては室内濃度指針値を定めています。しかし、テレピン油はその対象には含まれていません。3
さらに、テレピン油には皮膚刺激、皮膚感作(アレルギー)があると報告されています。しかし、漆そのものにテレピン油とは比較にならないほど強い皮膚感作性があることは、古くから知られています。いわゆる「漆にかぶれる」という症状です。使用にともない最大限の注意を払う必要がある漆を使うにも関わらず、テレピン油の皮膚刺激性だけを切り離して論じることには、やや違和感があります。
ここまで我慢強く読んでいただければ、少なくともテレピン油についての「安全性に重大な懸念がある化学物質なの?」という不安は払拭できたのではないでしょうか。正しい知識を身につければ、錯綜する情報に振り回されることはありません。自分自身の判断で、使うか、使わないかを判断することができるようになるはずです。
テレピン油が漆の中に残留する恐れがあるという指摘について、私が調査した範囲では、漆を含む塗装分野で使用されたテレピン油の残留量や溶出量を評価した公的な試験データは確認できませんでした。そのため、現時点でその残留リスクについて論じることは難しいと考えています。
国内の主要漆精製メーカーはどう考えているんだろう?
それでは、漆精製メーカー各社の対応はどうなっているのでしょうか。漆を自社精製している国内の主要メーカー9社を対象に調査してみました。
| 社名 | 金継ぎセット販売 | VOCの有無 |
|---|---|---|
| いわて漆テック(岩手県) | × | ー |
| 松沢漆工房(岩手県) | ○ | ○(金継ぎ専用溶剤) |
| 藤井漆工芸(東京都) | ○ | ○(ガムテレピン油) |
| 辻田漆店(福井県) | × | ー |
| 箕輪漆行(福井県) | ○ | ○(ガムテンピン油) |
| 加藤小兵衛商店(京都府) | × | ー |
| 佐藤喜代松商店(京都府) | × | ー |
| 鹿田喜造漆店(京都府) | ○ | ○(テレピン油) |
| 堤浅吉漆店(京都府) | ○ | ○(テレピン油) |
※2026年7月時点(当社調べ)
漆のスペシャリストとして高い知見と技術力を持つ漆精製メーカーの中で、金継ぎセットを商品化し、販売しているのは5社。そのうち、4社の金継ぎセットにはテレピン油が含まれており、1社は「金継ぎ専用溶剤(高度に精製された石油系溶剤)」を利用していました。つまり、すべての商品にVOC(揮発性有機化合物)が含まれています。
コンプライアンスとリスク管理を徹底するメーカー各社の金継ぎセットすべてに、テレピン油もしくは同様の用途で用いられる有機溶剤が含まれているということの意味は、非常に大きいと思います。食品衛生法の解釈や残留リスク、安全性へのリスク評価など、間接的にではありますが、ここまで解説してきた内容の裏付けになるのではないでしょうか。
便利さと引き換えに増したテレピン油の重要性
では、金継ぎをはじめとした漆芸全般において、なぜテレピン油を使う必要があるのでしょう? これには大きくふたつの理由があると、私は考えています。まずひとつ目は、漆の粘度を調整する必要があるから。2015年に発行された『漆塗りの技法書』には、溶剤について次のように書かれています。
市販されている漆は粘度が高いので、刷毛などで塗りやすくするために溶剤で希釈します。一般的には、灯油やテレピン油が望ましいのですが、荏胡麻油やシンナー(※)なども溶剤として使えます。(中略)※ラッカーシンナーとは異なる。
この「市販されている漆」という部分が、重要なキーワードです。
現在、金継ぎをされている方のほとんどは、市販されているチューブに入った漆を使われていることでしょう。そして、市販の精製漆はそのままの状態で使える場合もありますが、実際にはテレピン油などの溶剤を使ってゆるめないと粘度が高すぎるものが大半です。
このように精製済みの漆を購入することが一般的になる前は、漆職人が生漆(漆の木から採取された樹液そのもの)を各自の好みに合わせて自分で精製していました。生漆を攪拌して成分を均一化する「なやし」と、熱を加えて水分量を調節する「くろめ」を、かつては職人それぞれが自分自身の手でおこなっていたのです。佐々木英著『漆芸の伝統技法』には、次のような記述があります。
昔は漆を使う人が各自に、太陽のもとで終日木の鉢の前にすわって、木箆(きべら)でのんびり攪拌して、好みの漆を調合しました。いまは春慶塗りの産地だけがわずかに行っているだけで、ふつうは精漆工場がなやし、くろめを行い、多種類の目的別、産地別の精製漆をつくるようになっています。
生漆を天日にさらしながら何時間もかけて精製し、自分好みの粘度に調整する。もしそこから始めるとしたら、現代人がスキマ時間に趣味で金継ぎを楽しむことなどできません。
購入してきたチューブから漆を出せば、すぐに金継ぎが始められる。とても便利な時代になったものです。しかし、便利さと引き換えに、テレピン油のような溶剤を使うことの必要性が増してしまった。このトレードオフの関係は、忘れるべきではありません。
漆を希釈するためにVOCを使うことは伝統なのか?
そして、金継ぎにVOC(揮発性有機化合物)が使われるもうひとつの理由。それは、漆を希釈するためにテレピン油などのVOCを使うことが、漆芸そのものの「伝統」だと考えられるからです。
「名前からして昔はなかったテレピン油を使うことが伝統??? いくら何でも、それは絶対におかしい!!」
なんだかそんな声が聞こえてきそうですが、まあ聞いてください。ここから先はテレピン油だけの話ではありません。テレピン油を含むVOCが、漆芸の歴史の中でどのように使われてきたかという内容です。
まず、1972年に発行された『新装合本 漆芸辞典』には、次のような記述があります。
溶剤としてはしょうのう、塗装用片脳油、テレピン油、工業用アルコール、石油などが用いられる。
また、1986年発行の『漆芸の伝統技法』にもこのように書かれています。
漆を希釈するのに、塗料用片脳油、樟脳がおもに用いられます。テレピンやシンナー、白灯油なども使えますが、蒸発の遅い点で樟脳類が扱いやすいといえるでしょう。
少なくとも半世紀前には、漆芸にテレピン油を使用することは当然のように捉えられていたことがお分かりになるでしょう。その背景にあるのが、前述した漆そのものの供給形態の変化。すでに、粘度が高い「市販されている漆」を使うことが一般的になっていた時代です。しかし、これを「伝統」だと言うには、もっと時代を遡らなければなりません。それでは、大正11年(1922年)の東京高等師範学校教授、岡山秀吉著『塗物術』を見てみましょう。
漆を希釈するがためには、樟脳・樟脳油・酒精・的列並油・依的兒等をも用う。樟脳及び樟脳油は比較的漆液の本質を害すること少くして、流動性を増加するの効がある(後略)
およそ100年前にはすでに漆を希釈し、流動性を高めるために樟脳やテレピン油が使われていたことが分かります。なお、この中にある溶剤を説明すると、樟脳と樟脳油は文字通り、酒精はエタノール、的列並油はテレピン油、依的兒はエーテルです。
この書物が筑波大学の前身、東京高等師範学校で使われていた教科書のようなものであるという特性から、当時はすでにこれら揮発性油の使用が漆芸の技術体系に組み込まれていたことが伺い知れます。
明治18年(1885年)、農商務省山林局(現在の農林水産省林野庁)は松脂からテレピン油(松香油)を製造する方法を紹介した翻訳書『松脂採収法』を刊行しました。10 ということは、この時期に明治政府は国内における松脂産業を育成しようとしていたと推測できます。つまり、金継ぎを含む漆芸にテレピン油が使われるようになったのはそれ以降であり、大正11年にはすでに一般的になっていたと考えるのが妥当でしょう。
江戸時代の古文書から見えてきた新事実
では、明治期以前は漆を希釈するためにどんな溶剤が使われていたのでしょうか。それが、これまでにも度々テレピン油とともに登場してきた「樟脳」と「片脳油」です。
樟脳および片脳油とは、クスノキなどを原料とする天然由来の揮発性成分。木材を加熱し、揮発した成分を冷却することにより採取され、その原理は松脂を蒸留してテレピン油を得る方法とよく似ています。もちろん、これらもVOC(揮発性有機化合物)です。歴史的には、豊臣秀吉の朝鮮出兵に参加していた島津義弘が薩摩藩に連れ帰った多くの朝鮮陶工のうちの一人、鄭宗官が藩の免許を受け、慶長10〜11年(1605〜6年)頃に現在の鹿児島県日置郡市来町美山にて国内製造を始めたと伝えられています。
そして、江戸後期(1833年)の写本『塗物伝書』には、当時の漆職人たちが樟脳を使っていたという明確な記述があります。
漆は勿論、生漆壱匁、紅から弐分、せいのふ壱厘合せ、二へん通、書なり。其上直ニふろに入、しばらく置、干かけんを見て、ねばねばして手ニまきへ漆つかぬ時、まかへニてまき、其上直ニ金ふん成、銀ふん成共まわたニ付とめる也。
古い言葉なので理解しづらいですが、冒頭に「蒔絵には生漆1匁に弁柄2分、樟脳1厘を混ぜ合わせ、2回漉した漆で文様を描く」と書かれています。後半部分は金粉・銀粉の蒔き方です。また、呂色塗の方法が記された箇所にも、樟脳が登場します。
思ふ木地ニ生漆壱匁、青しち五分、黄わう五分、当分ニ合せ、右の生漆合せ、地ヲ致也。其上一夜からし、右の生漆の内へ黄わう・青しつ少々入、摺漆致、一夜からし、其上右の朱の黒メ漆拾匁、生油三匁、其内焼明はん少々、セうのふ少々入、合せ塗也。
こちらでは、後半部分に「朱の精製漆(黒目漆)10匁と生漆3匁を混ぜ、そこに焼みょうばんと樟脳を少し入れる」と書かれています。上塗りの解説となりますので、これは漆の流動性を良くするために樟脳を加えていたと解釈するのが自然です。
漆芸に使われるVOCの歴史は江戸中期にまで遡る
この『塗物伝書』は津軽藩内に伝わっていた写本であり、漆職人たちが技術を伝承するために書き写してきた伝書だと思われます。そのため、原本となった秘伝書がどの時代に書かれたのかは定かでありません。
しかし、津軽には『塗物伝書』を含め、現在までに6点の漆芸に関する江戸時代の古文書(塗物伝書・塗物秘伝書・漆合方並に塗物家伝全・塗方秘伝書・塗物秘伝・塗物秘伝記)が確認されており、その内容には類似している点が非常に多いと言います。つまり、これらの史料には原本となる秘伝書があり、それを代々書き写していくうちに枝分かれしていった可能性が高い。だとすれば、その原本の書かれた時期が、少なくとも江戸中期にまで遡る可能性は充分にあると言えるでしょう。
また、古文書に樟脳などVOCの記述が確認できるのは、津軽だけではありません。年代や地名は明記されていないものの、蒔絵技法について解説されている『塗物油繪法』という古文書にも、「摺漆をする際は生漆に片脳などを加え、水のように薄くする』という記述があるなど、文脈から判断して片脳油だと思われる「へんのう」「へんのふ」が登場する箇所がいくつかあります。12
こうして歴史的資料の数々を紐解いていくと、すでに江戸中期〜後期には樟脳や片脳油が、漆を希釈するための溶剤として使われていたという実態が見えてきます。
金継ぎの技法が確立したとされる室町末期〜安土桃山時代は?
『塗物伝書』が収録されている『日本農書全集 第53巻』の中で、その現代語訳と解説を務めた弘前大学教授・佐藤武司氏は、本書の解説の中で次のように述べています。
漆工芸品や陶芸など日本の伝統的工芸(工芸にかぎらないが)は、室町時代から江戸時代初期までに完成の域に達している。後代は、その域にいかに近づくかというところで制作活動を行っている。津軽塗においても例外ではない。
この視点に立てば、室町〜江戸時代初期には漆芸の技術体系が確立されていたということになります。つまり、その頃にはすでに漆を希釈するための溶剤が使われていたという可能性も否定はできないのです。史料がない以上、もちろん肯定することもできません。
ここからはあくまでも憶測に過ぎませんが、室町末期〜安土桃山時代という戦乱の世で、大名や公家、神社仏閣から求められた建築装飾や蒔絵などのレベルは、おそらく現在とは比較できないくらい高かったと思われます。下手な仕事をすれば、比喩などではなくリアルに首が飛んだかもしれない時代。何があっても失敗は許されず、職人たちが張り詰めた緊張感の中で漆と向き合っていた様子は容易に想像できます。
クオリティを上げるために、使えるものは何でも使ったことでしょう。当時、まだ国内生産の樟脳類はありませんでしたが、奈良時代から輸入されていた龍脳、もしくは輸入されていた樟脳などのVOCが使われていたという可能性はあります。もう、ここまで来たら歴史ミステリーの領域。史実が判然としない以上、書き手の想像力次第でどんな物語だって描くことができてしまいます。
伝統とは世代を超えた創意工夫の積み重ねである
テレピン油に限定することなく、漆を希釈する溶剤としてのVOC(揮発性有機化合物)を歴史的に掘り下げていった結果、少なくとも江戸中期までは遡ることができました。それ以前については、まだ想像の域を出ることができません。
とは言え、江戸中期には樟脳や片脳油が使われており、それは現在でも使われている。そして、より安価で、安定した供給が可能なテレピン油が普及すると、次第にそちらが主流になっていった。要するに時代の流れとともに樟脳や片脳油がテレピン油に置き換わっただけであり、根本的な技術体系は江戸中期から大きく変化してはいない。言えるとすれば、市販の精製漆を使うようになったことで、溶剤で希釈する必要性が増したというくらい。
それでも、金継ぎにテレピン油を使うことが「伝統的ではない」と言えるのでしょうか? もちろん金継ぎが成立したとされる時代に、VOC(揮発性有機化合物)が使われていたという歴史的資料は見つかっていません。しかし、確認できる範囲だけでも200年間は受け継がれてきた技術体系に対し、「伝統的ではない」と言い切ってしまうのはいかがなものでしょうか。
例えば、茶の湯における七事式。これは表千家七代と裏千家八代が江戸中期に確立した、茶の湯の精神と技術を磨くための稽古法です。七代目と八代目が考えたのですから、もちろん千利休が侘び茶を確立した時代にそんなものはありません。でも、「茶の湯が成立した時代に七事式なんてなかったんだから、これは伝統ではない」なんてことを言う人はあまり見かけませんよね?
つまり、伝統というのは過去のある一点をそのまま保存することではないのです。先人が培ってきた技術や思想を受け継ぎながら、本質を変えることなく、その時代を生きる人がさらに次世代へと継承するために随時更新していく。こうして積み重ねられた層が幾重にも重なり、厚くなればなるほど、伝統としての重みが増していくのではないでしょうか。
金継ぎでテレピン油を使うことについても、「蒔絵筆で美しい線を引くために漆を適切な粘度に調整する」という目的は、少なくとも江戸中期から1mmも変わっていません。つまり、伝統が失われたのではなく、室町末期〜安土桃山時代から連綿と受け継がれてきた伝統の中で、時代に応じて材料が更新されただけのことです。
金継ぎの歴史の中で、材料が更新された例は他にもあります。ひとつは弁柄。当初は天然の鉱物を採掘・精製してつくられていましたが、現在の弁柄は基本的に工場で化学的に製造される人工酸化鉄です。また、黒漆も同様です。現在の一般的な黒漆は、黒目漆に鉄漿(お歯黒液)を加えて化学反応を起こし、漆そのものを黒くしたもの。この技法が広く普及したのは、お歯黒文化が最盛期を迎えた江戸中期以降と考えられます。それ以前は、松煙などを黒目漆に混ぜていました。
岡本太郎はその著書『日本の伝統』の中で、「古いものは常に新しい時代に見かえされることによって、つまり、否定的肯定によって価値づけられる。そして伝統になる」と書いています。室町末期〜安土桃山時代より続く歴史の中で、金継ぎの技術体系も時代に合わせ、何度も何度も見返されてきたことでしょう。そして、過去を再評価した上でより良い手法、より使いやすい材料へと更新し続けてきました。こうした創意工夫の系譜を、伝統と言わずしていったい何と言うのでしょうか。
だからこそ、私は本質を守りながらも幾世代にわたり試行錯誤を繰り返してきた先人たちへの敬意を込めて、「テレピン油をはじめとするVOC(揮発性有機化合物)を金継ぎに使うことは、紛れもない伝統である」と、言いたいと思います。
テレピン油について、インターネット上には「非常に強い臭いがある」という指摘もありますが、少なくとも私が使用している堤淺吉漆店の『純良テレピン油』には不快に感じるような刺激臭はありません。また、以前使用したことがある鹿田喜造漆店の『純テレピン油』や、ホルベイン画材の『ターペンタイン』でも、不快な刺激臭を感じることはありませんでした。
一方で、市販されている「テレピン油」と呼ばれる製品には品質や成分の違いがあり、石油系溶剤を用いた製品も流通しています。私自身もそのような製品を使用したことがあります。そのため、「テレピン油=強烈な臭い」というイメージは、使用した製品の違いによって生まれている可能性があります。
1. 厚生労働省「ポジティブリストで管理すべき物質の対象範囲について」
2. 厚生労働省「GHS対応モデルSDS情報」
3. 厚生労働省「シックハウス対策(室内濃度指針値)」
4. ECHA Classification & Labelling
5. NIOSH Pocket Guide
参考文献
6. 十時啓悦、工藤茂喜、西川栄明著『漆塗りの技法書』誠文堂新光社(2015年)
7. 佐々木英著『漆芸の伝統技法』オーム社(1986年)
8. 伊藤清三、安倍郁二、六角大壌、中山修三著『新装合本 漆芸辞典』光芸出版(1972年)
9. 岡山秀吉著『塗物術 : 木材着色、ワニスペンキ、漆、蒔絵』大倉書店(1922年)
10. 農商務省山林局編訳『松脂採収法』大日本山林会(1886年)
11. 『日本農書全集 第53巻』農山漁村文化協会(1998年)
12. 『蒔絵図 塗物油繪法』国立国会図書館デジタルコレクション(年代不明)
13. 岡本太郎著『日本の伝統』光文社(2005年)
掲載画像
14. 『蒔絵図 塗物油繪法』国立国会図書館デジタルコレクション(年代不明)






